1997年シーズンの終わりにケン・ティレルがブリティッシュ・アメリカン・タバコにチームを売却。1970年代初期、ティレルは今や伝説となったケン・ティレルのチームとしてF1界で栄光の日々を勝ち取ったチームだ。チームの再生が期待され、初期のような栄光の日々が戻ってくることが望まれた。1998年ティレルは最終戦まで戦い、12月、公式にチーム名をブリティッシュ・アメリカン・レーシングと変更。その後、悲劇にもケン・ティレルはドライバーにかかわる論争でこじれ、結果的にチームを退いている。
新生ブリティッシュ・アメリカン・レーシングとなった最初の年は、ジャック・ビルヌーブとリカルド・ゾンタがドライバーに決まり、またビルヌーブのマネジャー、クレイグ・ポロックがチームを運営することとなった。
しかし、彼らは暗雲のスタートを切ることになる。2台に違ったカラーリングを施したマシンを送り出すも、それが認められず、次にマシンの真ん中にファスナー柄を描き、それを挟んで両側に異なったペインティングを施すという2重共同スポンサーをアピールできるマシンを造り上げるが、これも認められなかった。結局、ブリティッシュ・アメリカン・レーシング側がFIA(国際自動車連盟)に譲歩する形で問題は解決する。結果的に最初の年は苦い経験を積むことになり、1ポイントも上げられずに終了。マシンの信頼性がチームの課題だった。
ホンダとの提携が始まった2000年はうまく機能し、ビルヌーブは数戦で素晴らしいパフォーマンスを見せる。ゾンタもシーズン後半には比較的いい位置につけるレースもあった。ブリティッシュ・アメリカン・レーシングは新しい2人のドライバーが総合5位以上の結果を残すことを期待し、2001年のビルヌーブのパートナーとしてオリビエ・パニスと契約を結んだ。結果的にこの期待は達成されず、2001年はホンダエンジンを駆使したライバルのジョーダンに敗れ、総合5位でシーズンを終了。フラストレーションがたまったビルヌーブは全体的なパッケージにダメだし、2002年に向けて大々的な改革がなされている。
しかしながら、新車発表の前夜、突然、ビルヌーブの友人でありマネジャーであるポロックが解雇され、ビルヌーブの今後に疑問符を残すこととなった。チームに栄光を取り戻すため、ポロックの後任としてデビッド・リチャーズがチーム監督に就任。
ビルヌーブは2003年も残留、チーム名をブリティッシュ・アメリカン・レーシングからB・A・Rに変更したチームはグリッド上でホンダエンジンを搭載する唯一のチームとなっていた。ビルヌーブのチームメイトにはウィリアムズ、ルノーを経たジェンソン・バトンが起用される。激しいやりとりで始まった両者の関係だが、バトンはビルヌーブをしのぐ活躍を見せた。そして、事実上、チームのリーダーとなったのだ。
最終戦日本GP前にチームは、この年、サードドライバーを務めていた佐藤琢磨を2004年のレースドライバーに起用すると発表、ビルヌーブは急きょ日本GPへの参戦を取りやめ、琢磨が出走している。
多少時間はかかったが、2004年はB・A・R Hondaにとって飛躍の年となった。コンストラクターズ5位から一気にジャンプアップし、チャンピオン争いを繰り広げるトップチームの仲間入りを果たしたのだ。2004年は119ポイントもの大量得点を挙げ、コンストラクターズチャンピオンシップを2位で終えた。バトンの2位表彰台4回に加え、琢磨がインディアナポリスで初の表彰台をつかんだ。トータルでは11回の表彰台フィニッシュと、24回のポイント圏内フィニッシュを果たしている。
2004年に大躍進を果たしたB・A・R Hondaは2005年、初優勝達成に自信をみなぎらせていた。前年に起きたウィリアムズとジェンソン・バトンの契約問題も影響し、チーム代表のリチャーズが離脱したが、代わってニック・フライが代表に就任、バトンの引き留めにも成功している。
こうしたマネジメント面とは裏腹に、チームは開幕3戦を過ぎても、バトンと琢磨がノーポイントと不振を極めた。第4戦サン-マリノGPではこれに追い討ちをかけるように、マシンの最低重量が規定を下回っていると判断され、失格処分が下される。その後はさらに2戦連続出場停止と苦境に立たされた。
チームはシーズン中盤になってもポイントを獲得できず、苦戦を強いられたが、その一方ではHondaがチームの株式を45%取得したことを発表。さらにシーズン末には100%の株式をHondaが所有するに至っている。また、バトンがフランスGPでシーズン初ポイントを挙げてからは最終戦まで全戦でポイントを獲得。一方の琢磨は最後まで波に乗れず、苦しいシーズンを送った。チームも結局、コンストラクターズランキング6位に低迷している。
バトンに至っては2005年も再びウィリアムズとの契約問題が発生したが、Honda残留を熱望するバトンの願いが叶う形で2006年の残留が決定。パートナーを務めた琢磨は新たにフェラーリからルーベンス・バリチェロを迎えたチームを去り、新チームのSUPER AGURIへと移籍した。
周囲の状況など運を味方につけたバトンがハンガリーGPで見事な初優勝を遂げ、チームに悲願の初勝利をもたらしたものの、テクニカルディレクターのジェフ・ウィリスが離脱するなど、2006年もHonda Racing F1にとって紆余曲折のシーズンとなっている。
バリチェロはHonda Racing F1で過ごす初シーズン前半は、ますます進歩を遂げるトラクションコントロールなど、RA106が彼のドライビングスタイルに合わず、苦戦を強いられる形となった。バトンは新チームメイトに起こったような問題もなく、シーズン後半戦を楽しんだ。
開幕戦から12レースで21ポイント獲得というのは決して褒められた成績ではないが、バトンは最後の6戦で35ポイントを獲得し、最多得点を稼いだドライバーとなった。一方のバリチェロはシーズン全体で30ポイントをマーク、Honda Racing F1は合計86ポイントでコンストラクターズ選手権を4位で終えている。
チーム内に大きな変動もなく2007年シーズンに挑んだHonda Racing F1だったが、RA107は精彩を欠いていた。バリチェロはノーポイントでシーズンを終え、バトンもわずか6ポイントの獲得にとどまっている。
その裏側でフライはチームに新しい風を吹かそうと、努力を重ねていた。そしてオフシーズンに入り、フェラーリの元テクニカルディレクターであるロス・ブラウンの加入が発表されたのだ。ブラウンは新チーム代表に就任している。
2008年シーズンも引き続きバトンとバリチェロがレースドライバーを務め、新たな戦いに挑む。