佐藤琢磨のレースデビューは1996年。ホンダスクールに入学する前から、専用のレーシングカートを買う資金を用意していたと言うから驚きだ。そこから巨大なエンジンサプライヤーHONDAの下で徹底的な教育を受け、1998年の全日本F3チャンピオンシップで大活躍を見せた。もちろん、それだけで満足はせず、新たな挑戦を求め、活動の舞台をイギリス移すこととなる。
1998年、ヨーロッパでの1年目はダイヤモンド・レーシングからフォーミュラ・ヴォクソールに参戦。その後フォーミュラ・オペルへ移籍し、1999年 シーズンはフォーミュラ・オペル・ユーロシリーズでフルシーズン参戦を果たして6位という成績を残した。
2000年からはカーリン・モータースポーツからイギリスF3チャンピオンシップに参戦し、この年4勝を挙げて総合3位で終了している。
また、同年、F1マシンの初ドライブを果たす。ジョーダン・グランプリとB・A・Rの両方でテストを受け、2001年にはテストドライバーとしてB・A・ Rと契約した。
琢磨は並行してF3参戦を継続。ここで25戦中12勝という抜群の成績を収め、日本人として初のイギリスF3チャンピオンに輝く。さらにザントボールドでのマールボロ・マスターズ、マカオGPでも勝利を収めている。
2002年、ついにF1へ。ジャンカルロ・フィジケラと並んでDHLジョーダン・ホンダと契約。鈴鹿での最終戦で5位入賞を果たした。
2003年はB・A・Rのサードドライバーとして契約する。表舞台への登場は少なかったが、最終戦日本GPではレギュラードライバーだった1997年のワールドチャンピオン、ジャック・ビルヌーブの代役として出走を果たした。自信に満ちた走りを見せ、結果は6位入賞で再び日本の観客を沸かせている。
2004年はF1にフル参戦で復帰し、ペースは証明して見せたものの、信頼性に欠ける部分が見られた。チームメイトのジェンソン・バトンが次々とポイントを取っていったのに対し、琢磨はなかなか結果が出ずに苦しんだ。しかし、アメリカGPで3位表彰台に上るなど、ドライバーズ選手権を8位でフィニッシュ。
2005年はさらに上を目指し、チームメイトのバトンと対等に渡り合うこと、そんな期待が琢磨に寄せられていた。
しかし、そうした思いとは裏腹に、2005年は琢磨にとって悪夢のようなシーズンとなってしまう。007シャシーの戦闘力が不十分だったこともあったが、その状況下でバトンが着実に結果を出して年間37ポイントを獲得したのに対し、悪循環に陥ってしまった琢磨は総得点1ポイントでシーズンを終えた。
苦しい状況で迎えた終盤戦の日本GPでは、プレッシャーのせいか、1周目で大きくポジションを落とした上、トヨタのヤルノ・トゥルーリに側面から衝突するなど、散々な母国グランプリとなってしまう。最終戦中国GPでは抜群のスタートを見せたと思われたが、判定はフライング。最後はギアボックストラブルでリタイアと、後味の悪いシーズン締めくくりとなった。秘めた才能では決してバトンに引けを取らないドライバーだけに、本人にとっても辛い1年だったことは想像に難くない。琢磨の場合、パフォーマンスを出そうとするあまりに気持ちが空回りし、レースの組み立てに失敗する傾向がレースで見られた。その結果、B・A・R Hondaは2006年のドライバーとして、琢磨の代わりにルーベンス・バリチェロを選ぶという苦渋の決断を下したのだ。
2006年はSUPER AGURI F1チームで新たな出発を迎えることになった琢磨。チームリーダーとして、一からスタートしたチームと井出有治、フランク・モンタニー、そして山本左近らと共にシーズンを戦った。ポイント獲得の可能性が低い中、シーズン序盤は確立されたライバルたちをしのぐことはなかった琢磨だが、チームは素晴らしい進歩を遂げている。
とりわけ、シーズン最終戦ブラジルGPは、琢磨にとってベストレースだったと言えるだろう。琢磨はライバル6人を抑え、10位でチェッカーフラッグを受けたのだ。
2007年もSUPER AGURIに残留した琢磨は、より優れたパッケージを手に、スペインGPでチーム初入賞となる8位でフィニッシュ、SUPER AGURIに初ポイントをもたらす。モントリオールでは2度のワールドチャンピオンとなった後、マクラーレンに移籍していたフェルナンド・アロンソをオーバーテイクするなどして6位でチェッカーを受けている。
2008年も引き続き、琢磨はSUPER AGURIのマシンを駆る。