デビッド・クルサードはカートでの優秀なキャリアを引っ提げて1989年、鳴り物入りでFF(フォーミュラ・フォード)に参戦した。そのドライビングテクニックは目覚ましく、シリーズのチャンピオンを獲得。そして、当時新たに設けられた“マクラーレン/オートスポーツ・ヤングドライバー・オブ・ザ・イヤー”初の受賞者となった。受賞後、マクラーレンの計らいにより、念願のF1マシンを初ドライブする。翌1990年もジュニア・カテゴリーに参戦したが、スパ・フランコルシャンで足を負傷する事故を起こした影響から、シリーズを4位で終えている。翌1991年、毎年行われているザントフォールトやマカオでの国際F3 レースで優勝したことで、名前は一気に全世界へと知れ渡った。
1992年はポール・スチュワート・レーシングから国際F3000に参戦し、総合9位でフィニッシュ。翌1993年の国際F3000では期待以上の活躍ができず、総合3位という成績だったが、その走りに注目したウィリアムズから、テストドライバーに抜擢された。
1994年は前年同様に、国際F3000を続けながらウィリアムズのテストドライバーを並行していく予定だった。その年、イモラで行われたサン-マリノ GPでウィリアムズのエースドライバーだったアイルトン・セナが命を落とし、世界は深い悲しみで覆われる。クルサード自身も心に深い傷を負いつつも、ここで転機が訪れた。チームのレギュラードライバーとして、F1デビューを飾ったのだ。この年は8戦のみの参戦だったが、価値ある14ポイントを獲得し、ドライバーズランキング8位という成績を残す。セナ亡き後のシートに収まり、世界にF1ドライバーとしての力量を認めさせるには十分な結果だった。
1995年もウィリアムズのレギュラードライバーとしてチームに残留。シーズン後半には、1996年にワールドチャンピオンを獲得するチームメイトのデイモン・ヒルや、当時ベネトンのミハエル・シューマッハといったドライバーを抑え、4戦連続でポールポジションを獲得する。ポルトガルGPでは念願の初優勝を果たすなど、若手有望ドライバーとして見る見るうちに頭角を表した。このシーズンは49ポイントを獲得し、ドライバーズランキング3位で終了している。
1996年にはマクラーレン・メルセデスに移籍、“フライング・フィン”ミカ・ハッキネンのパートナーとなる。過渡期のマクラーレンで過ごしたこの年は、18ポイントの獲得にとどまり、ドライバーズランキング7位と低迷を余儀なくされた。
1997年、開幕戦でいきなりの優勝を果たし、マクラーレンに4年ぶりの勝利をもたらすと、イタリアGPでも勝利をあげ、その年はドライバーズランキング3位を獲得。名門マクラーレンの復活が、すぐそこまで来ていた。
1998年、マクラーレンはついにドライバーとコンストラクターの両チャンピオンシップを制する。しかし、クルサード自身は浮き沈みが激しく、勝ったのはサン-マリノGPでの一度だけだった。ピットの混乱やアクシデント、そしてメカニカルトラブルに悩まされること数知れず。常にミハエル・シューマッハとミカ・ハッキネンの戦いの後塵を排し、56ポイント、総合3位でシーズンを終えた。
1999年もまた、さまざまなトラブルと戦う羽目になり、リタイア回数は7回。波乱のシーズンではあったが、イギリスGPでは母国初勝利を飾っている。この年はドライバーズランキング4位で終了。チームメイトのミカ・ハッキネンは2年連続でワールドタイトルを獲得した。
2000年、引き続きハッキネンをパートナーとして参戦。この年、クルサードの乗ったプライベート小型ジェット機が着地に失敗し、2人のパイロットが死亡する事故に巻き込まれた。生死を分けるギリギリの局面に遭ったその直後、モナコGPでいきなりの優勝を飾ったクルサード。復帰後の走りは輝かしく、躍動感に溢れ、クルサードには新しい生命が宿ったかのように見えた。だが、栄光への激烈なチャレンジも年間を通して続くことは叶わず、残念ながら結果は3位にとどまった。
2001年シーズン、チームに信頼性の問題がのしかかる。ドライバーズランキングは2位と過去最高の成績ではあるものの、圧倒的なパフォーマンスを見せつけたミハエル・シューマッハのライバルとして名乗りを挙げるには至らなかった。必死の努力も虚しく、途方もなく続くマシントラブルに憔悴したミカ・ハッキネンは苦渋の決断の末、2002年シーズンを断念。これによりモータースポーツの歴史上、最長となるパートナーシップが終わりを告げた。
2002年から新たなパートナーとして、ハッキネンと同郷のフィンランド人ドライバー、キミ・ライコネンを迎える。この年はモナコGPでの優勝で健在ぶりは示したものの、前シーズンより続いたマクラーレンのパフォーマンス不足は深刻だった。チームはコンストラクターズ3位に降格し、クルサード自身はドライバーズランキングを5位で終えている。
2003年シーズンはさらなる苦難が彼を襲った。最終戦までドライバーズタイトルを争い、チームのエース役を担ったのは若き“フライング・フィン”キミ・ライコネン。その一方でクルサードはさまざまな不運、トラブル、さらには予選システムの変更により一度のみとなったタイムアタックへの適合に戸惑いを隠せずにいた。ライコネンの活躍を横目に悪戦苦闘を続け、F1フル参戦以後ワーストのランキング7位という屈辱的な結果で終えてしまう。
2004年、クルサードはチームメイトのライコネンのペースに追いつくことができず、特に予選ではライコネンの素晴らしいラップにかすんでしまうほどだった。
実に9年もの間、在籍したマクラーレンを離れ、新チームのレッドブル・コスワースに加入したクルサードは、新たな挑戦の年となった2005年シーズン、自由を楽しみ、24ポイントを獲得して周囲を驚かす。
数名の有名スタッフ加入とフェラーリエンジン搭載が話題を呼んだ2006年だったが、クルサードとチームにとっては期待外れのシーズンとなった。この年、チャンピオンシップを13位で終えたクルサードだが、モンテカルロで行われたモナコGPではレッドブル初の表彰台に上っている。
2007年、新たにルノーからエンジン供給を受けることとなったレッドブルに残留したクルサードは、新チームメイトにマーク・ウェバーを迎え、共にレースでは対等なペースを見せた。クルサードの予選のペースはRB3の驚くべき信頼性の低さに、しばしば失望させられる。この年のハイライトは雨の日本GPでの4位入賞。合計14ポイントを獲得したクルサードはチャンピオンシップを10位で終えた。